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アニマル・コミュニケーション誕生秘話
子供の頃、私(理恵子)は、両親、姉、祖母、そして未婚の父の姉と2人の妹と私の8プラス、ケミという1匹の犬で暮らしていました。私の父は国家公務員で三男でしたが、親と同居し、未婚の叔母たちの面倒もみていました。が、一番上の伯母は若い頃の病気が元で、働けない状態でした。

母はそんな家の経済を支えるため、家事を父の姉であるその伯母と祖母に委ね、その当時の私たち世代には珍しくフルタイムの仕事を持ち、役職にもついていました。ですから私や姉と母の場合、一般的な母子の関係とは幼い頃から違っていました。逆に公務員であった父は定時に帰宅し、私たち子供の面倒を本当に良くみてくれました。母ももちろん私たちのことは可愛がってくれましたが、父はもともと子供好きだったので、特に私は母よりも、父に抱っこやおんぶをしてもらった記憶の方が多いくらいでした。

母はどちらかというと父親的に、夜遅くまで働いて、日曜出勤の日は、私たちを会社に連れて行ったりしながら、社会への接し方を教えてくれた人でした。世間一般からすると、父と母が逆転しているようなあるいは、父が
2人いるような家庭環境だったかもしれませんが、私も姉も一心に両親や家族の愛情を受けて育ったと思っています。そして特に一番上の伯母は、私と姉の昼間の母親代わりのような存在でした。おそらく、伯母が人一倍愛情深い人でなければ、私も姉も(確かに淋しいときもありましたが)自分の中にある「愛」を上手く育てることができなかったのではないかと思います。

幼い頃から病弱だった伯母は、前述した通り、外で働いた経験のなかった人でしたが、家の中の事は本当にきちんとするタイプの人でした。料理も洋裁も本当に上手で、オリジナルの料理で私たちを喜ばせてくれたり、よく家族の服も手作りしてくれました。伯母も母もしつけには本当に厳しいかったのですが、母はどちらかと言うと、勉強や社会との関り方、礼儀作法について厳しく、伯母は日常においても必要なことについてはとても厳しい人でした。

何といっても、家族の中で一番年少の私は、誉められるのも
7人からでしたが、叱られるのも7回叱られるわけです。例えば、部屋が片付いていなければ、いざ片付ける前に、そのことを7回も注意されるわけです。これにはさすがに幼い私も相当なストレスが溜まりました。

そのうち、(あくまで一般論ですが、一般的には男性よりも言葉数の多いとされる)女性が
6人いるわけですから、必然的に私は言葉を喋る必要があまりなく、もともとおっとりした性格もあってか、言おうと思ったときにはもう誰かが勝手に決め込んで、結論が出てしまっている状態でしたし、それに対し、反論しようにも幼い頃は、そこまで弁明できるボキャブラリーもありませんから、「もういいや。黙っておこう。」そんなこともしばしばありました。そんな私をなぐさめ、勇気付けてくれたのが他ならぬその頃の愛犬であったケミでした。

ケミは、私が生まれる前から我が家の住人で、種類は当時爆発的人気を誇ったスピッツで、我が家には貴重な男の子でした。私が生まれたときにはもう、10歳前だったと思います。ケミの名前の由来は毛が美しいからだそうで、叔母たちが付けたそうです。それから私が小学校3年生で、ケミが18歳となりこの世を去るまでの9年間、ケミは私の動物たちとの絆の深さを教え、いついかなるときでも変わらぬ愛を教えてくれた私にとっては大先生なのです。

私が家族に怒られ、言い訳もできず落ち込んでいると、決まってケミが励ましてくれました。ケミ:「そんなに気を落とすことないよ。みんな忙しいから余裕がないんだよ。」私:「そうかな?私のことなんてどうでもいいから話を聞こうとしてくれないんじゃないのかな?」ケミ:「どうでもいいなんて思ってないよ。ただ、世の中が忙しいだろう?だからそのスピードに合わそうとして、大人たちは余裕を失くしているんだよ。」私:「どうして合わそうとするの?」ケミ:「自分だけ違うことをしていると変に思われると思っているからだよ。みんな
1人ぼっちが怖いんだ。だから、大勢に自分を合わそうとしているのさ。」私:「ふーん。なんだか可哀想だね。大人って…。」そんな会話は私とケミに間では日常当たり前のことでした。

ときどき家族に「何
1人ごと言ってるの?」と聞かれ、「ケミとお話ししてたの。」と言っても、子供の言うことだと思ってその頃(23歳頃)は、深く追求されることはありませんでした。とにかく家族が多く、いつも追い立てられる環境にあった私を心から励まし、大人たちのネガティブな波動から守ってくれていたのも、他ならぬケミでした。

早生まれの私は、3歳から3年間近所のK幼稚園に通いました。もともと引っ込み思案だった私は、人と話すよりも、幼稚園にいる動物たちと仲良しでよく話しました。幼稚園の用務員室の前では、いつも20羽くらいのセキセイインコやブンチョウなどの小鳥が飼われていました。水槽には金魚や熱帯魚がいて、円形のプールにはカメも飼われていました。ニワトリ小屋にも10羽前後のニワトリがいましたし、うさぎ小屋にも56羽のうさぎがいました。

幼い私は用務員さんと仲良くなって、よく動物たちの世話をさせてもらっていました。ある日、セキセイインコさんたちが「私たち羽根があるのに、空を飛んだことがないの。一度でいいから空を飛び回ってみたいわ。」と言ったので、「いいよ。まかせて!」と私は鳥かごを止めてある洗濯バサミを全部はずそうとして、それを用務員さんにみつかってこっぴどく叱られたことがあります。

年少組の夏休み、動物たちのことが気になって幼稚園に行ってみたとき、プールにいたカメさんが、「暑そうだね。どうだい?明日水着持っておいでよ!一緒に泳ごうよ。」と言われた直後、用務員さんが「明日も来るんだったら、今度は水着持っておいで!今日プールを洗うから明日入れてやるよ。」と言ってくれました。
そして次の日、私はカメさんが泳ぎに誘ってくれたことを説明しました。用務員さんは信じられないと言わんばかりの顔をしていましたが、しぶしぶ承諾してくれ、私たちは一緒に泳ぐことができました。それから卒園までの間、カメさんとは何度もプールで泳ぐ機会がありました。

うさぎさんに、毎日家にある残り野菜を持っていっていたら、ある日「ねえあなた、私たちの赤ちゃんってみたことある?」と聞かれたので「ない。」と答えると「じゃあ、明日この子が赤ちゃんを生むから、良かったらみにこない?」と誘われたので、朝早めに幼稚園に行くと、本当に小さな小さなピンク色をしたうさぎの赤ちゃんが生まれていて、用務員さんが「朝早くに生まれたんだよ。」と言ってみせてくれました。

家でも大家族の中にいても分かってもらえないジレンマ、幼稚園でも人間のお友達となかなか馴染めず味わっていた孤独感を、彼らはまるで全部知っているかのように、いろいろなことをが語りかけてきてくれたました。なぜ私が幼稚園の人間のお友達と、なかなか馴染めなかったのかは例えばこんなことがありました。ニワトリさんのエサになるミミズさんを採るために、土を掘ってミミズさんをつかんで手に持って容器に入れようとしたとき、幼稚園の同じ組の子達に「リエちゃんってミミズを手でつかんでいるんだよ。汚いよ!気持ち悪い!」と言われ、仲間はずれにされました。

当時の私は、なぜミミズさんを手でつかむのが汚いのかが分かりませんでした。」(確かに、ミミズさんには可哀想な事をしているとは思うよ。でも、なんで汚いんだろう?なんで気持ち悪いんだろう?だって、ニワトリさんのごはんだよ…?)

その頃の私は、虫さんたちとも友達でしたから、ケムシさんも私が腕を出して「どうぞ。」と言うと這い登ってきてあいさつをしてくれていました。ところがこれも、先生に止められて「危ないよ。さされちゃうよ。」と言われました。(えっ!?ささないよ。だってケムシさんとは友達だもん。)そう思いましたが、(でも、先生がそう言っているってことは、さしちゃうこともあるのかな?)と一瞬思ってしまいました。そうするとケムシさんの方も、その日を境にいくら誘っても手に乗ってきてくれなくなてしまいました。私の中の「疑う事を知らない気持ち」に「迷い」が生じてしまったからなのでしょう。後の経験でも感じた事ですが、特に自然に近い動物ほど、このような傾向は強いように思われます。

私の中に「迷い」が生じてしまってから、少しずつ少しずつ年月が経つにつれ、確たる自信のようなものが崩れていきました。そうして私は、小学校の高学年くらいからぷっつりと、動物たちと対話することはもちろん、声を聞くことも、自然からのメッセージを受け取ることもできなくなってしまったのです。

その中で、今まで平気だった虫や一部の動物に対して「恐怖心」のようなものを持つようになってしまい、苦手なものと平気なもののが少しずつ入れ替わっていってしまったような気がします。そして、あれだけ同情していた大人の持つネガティヴな感情に、自分自身、共鳴していってしまうことになるのです。

そのように、少しずつスピリチュアルな、コミュニケーション能力を失っていった私でしたが、それでも「動物たちを助けたい。彼らの役に立ちたい。」と思う気持ちは強いままでした。その理由は、前述のケミと、後でお話する、大人になってから一緒に暮らしたミルの存在なくしては語れません。

私が小学校3年生の秋、学校から帰ってくると、ケミが口の中から血の泡を吹いて苦しそうにしていました。「伯母ちゃん。大変!ケミの様子がおかしいよ!」そう言って私は伯母に知らせ、2人で近所の動物病院にケミを連れていきました。ケミは舌ガンと診断されそのまま入院しました。(ガンって治らないんじゃないの?)テレビでガンを宣告された子供の親が愕然とするシーンを見たことがあった私はひどくショックを受けました。

それでもまだ、その後伯母から聞かされた話ほどショックではなかったのです。ケミが入院して
3日が過ぎた頃、私は学校から帰って来てケミの小屋をふと眺め、(まだ帰って来ていないんだ…。)そう思った次の瞬間、伯母が玄関に出て来て「お帰り。ケミ死んだよ。最期は苦しまずに安らかだったて。」(えっ!?ケミが?死んだって何?)私は目の前が真っ暗になりました。実は、あまりに苦しむケミと衰弱していく身体のことを思い、私の居ないとき、伯母たちと両親で相談し、安楽死させることを決めたらしかったのです。

自然死ではなく、薬を使って人工的に死なせた事を知った私はショックで、何日間も誰とも口をきくことができず、ろくにしばらくは食事をとることもできませんでした。(あんなに私に尽してくれていたのに殺すなんてひどいよ。ケミもどうして黙って逝っちゃったの?)そんなことを思いながら私は今でいうペット・ロスに陥りかけていたような気がします。けれども、ケミと会話した日々のことが、走馬灯のように私の中を何度も駈け抜け、日を追うごとに私の中にゆるぎない決意を生み出していったのです。

「私はケミに本当によくしてもらった。だから今度は私が、ケミのような動物たちのためにできることを何かしなくてはいけない。この世の中で不治の病と呼ばれている病気にも取り組んで、それをなくせるよう考えていこう。」そう強く決心しました。それから私は獣医師を目指しましたが、結局、文系の大学に進み、一般企業にいったんは就職することになります。しかし、幼い頃の純粋な決意というものは恐ろしいもので、私は再び動物たちとの目に見えない絆によって、やはり数年後には再び彼らと関っていくことになるのです。

ケミと死別してからの私は、その後一時的な縁を除いて10年以上動物と暮らすことはありませんでした。大学4年になる前の春休み、近所の薬局で動物病院移転OPENの貼り紙をみつけ、私は大学の友人と早速アルバイトに応募しました。一緒に応募したOさんとは、学科は違ったのですが、共通の友人の紹介で「究極の犬好き」という共通点からすぐ親しくなり、文系の大学生には珍しく、しつけや獣医学関係のセミナーに行ったりする仲でした。

そんな彼女と私が採用になったその病院は何を隠そうケミの最期を看取って下さったN先生が新規OPENした病院でした。私たちは受付はもちろん、血液検査をしたり、レントゲンフィルムを現像したり、診察の際の補ていをしたり、入院や預かりのペットの世話をしたりと、一連のAHT(アニマル・ヘルス・テクニシャン<動物の看護士>)と同様に近い仕事をさせて頂いていました。

そこでも色々な動物を(西洋医学ベースですが)診てきましたし、いろいろな勉強をさせて頂きましたが、まだそのときの私は、再び動物の声を聞くことはできませんでした。
1年間のアルバイトを終え、それと同時に私はN先生の紹介で、柴犬のブリーダーの方から1匹のオスの柴犬を譲り受けることになりました。10年以上、犬との縁が遠ざかっていた私でしたが、府内に両親が一戸建ての家を購入したため、引越しをすることとなり、もう一度犬と暮らすことになったのです。

彼の名はミルフィー。前の犬の名がケミだったので、「ケ」か「ミ」を取った名前で考えていたのですが、どうせなら可愛い名前をと私がフランス菓子の「ミルフィーユ」から取って名付けたのですが、家族の誰一人として本名の「ミルフィー」ではなく「ミル」で呼んだため、本人もそれで定着してしまったようでした。

ミルはうちに来たとき、既に生後
5ヶ月になっていました。前歯が一部「欠歯」だったため、展覧会に出せないとのことでブリーダーさん宅でたった1匹で違う場所にリードに繋がれていました。他の子と違ってあまり手入れもされておらず、一緒に見に行った母と姉は「えぇっ!?こんな汚い犬?」と思ったそうです。でも私は、彼とは会った瞬間にお互い「何か」を感じ合うことができました。

「うちに来る?」と聞くと満面に微笑みを浮かべて(柴犬と暮らされたことのある方は、あの柴犬によくみられる「柴犬スマイル」を見られたことがあるはずです。)「行く!連れて帰って!」と言っているようでした。まさに、運命の出会いだったように思います。

私は大学卒業後すぐは、住宅メーカーに勤めていました。朝早く夜遅い仕事だったので、ミルとの時間も次第に少なくなっていき、彼にも私にもストレスが溜まっていきました。ミルは一般的な柴犬と申しますか、日本犬らしからぬ性格で、とてもおとなしく温厚で、誰とでも仲良くやれる子で、しつけもスムーズでした。

どこに行っても、どんな犬とでも友好的に接してくれる子でしたし、家の中ではみんなに気を配る「気配り犬」でした。それでも私を一番好いていてくれて、父や姉が仕事から帰ってくるとしばらくは、ミルと遊びたがるので、そういうときはセラピー・ドッグとして活躍します。でもそのときでも、「お姉ちゃん(私のこと)。後で行くから待っていてね。」と必ず目で合図をするのです。そしてみんなが寝静まった頃、チッチッチッチと爪音を立てて、私の部屋に来てそっと私のベッドの足元で丸まって眠る。これが彼の日課でした。

そして朝というと、私の住宅メーカー勤務時代は起床が
530で、620に家を出ていました。そのときもミルは共に起き、母と一緒に私を駅まで送ってくれ、帰りが午後10時近くになることも少なくなかったため、そんなときも駅まで母と一緒に迎えに来てくれました。

そんなハードな仕事をしていたこともあってか、私はとうとう膵臓を痛め、医師に2週間の入院と退院後の自宅療養1カ月を言い渡されてしまいました。復帰後私を待っていたのは配置換えでした。配置換えになってからは仕事はとてもラクになりました。数ヶ月はその部署で勤務していましたが、ふとやる気を失ってしまっている自分に気付き、結局その会社を去ることを決意しました。

退職を決めたと同時に、私はある外資系のペットフード・メーカーでの社員募集広告をみつけ、ダメでもともとと応募をしたところ
200名近くの応募者の中から信じられないことに、たった1名の正社員の枠に採用されたのです。業界経験のある人の応募も多かった中、入社しても、私以外の人は全て、業界経験者か獣医師ばかりでした。そんな中で、私は自分で出来ることを必死で毎日考えながら仕事をしていました。それは、いかに一般の動物と共に暮らす人たちの声を代弁できるかということでした。

結果、
4年間の在職中、動物と暮らす人たちや、動物関係の仕事をされている方々に、100回以上自ら食事と病気の関わりや、しつけ、日常のケアの方法などのセミナーを企画し、行なってきました。本当にいろいろなことを伝えることができ、また逆に、いろいろなことを教えて頂くことができた、大切な学びの時であったと思っています。

動物たちの声を再び聞くようになったきっかけは、9810月、ハワイのカウアイ島で行われた獣医療関係者の研究グループである「獣医東洋医学研究会」主催の「人と動物の癒しのワークショップ・IN カウアイ島」というアメリカでのホリスティック医療の実状を学ぶプログラムに参加したことでした。

アメリカではもはや人間の医療において、何らかの自然療法や東洋医学を患者のケアに取り入れる、あるいはナチュラル・メディカルケア
100%で治療を行うことは珍しいことではなく、全米人口で年間、何らかの代替療法を行っている人の数は70%以上を占めています。

当然獣医療についても、人間ほどではないものの、何らかの代替療法を動物に行っている獣医師の方の数は日本の比ではありません。現代獣医学においても、最先端を走っているアメリカですから、おそらくこうした考え方が日本に入って定着するまであと
10年以上はかかるのではないかとみられています。(注:執筆当初。現在はだいぶホリスティック・ケアという考え方も動物医療では一部であっても、取り入れるクリニックが増えてきています。ただ、まだ絶対的な数は少ない状態です。)


私たちは現地で、ホリスティック医療専門の動物病院を開業しているDr.Bascoという獣医師の方の話しを中心としたセミナーに参加しました。そのプログラムで、「鍼灸」「手作り食を中心とした食事療法」「サプリメントの使用方法」「フラワーエッセンス」「アロマテラピー」などの他、「アニマル・コミュニケーション」というワークを受けました。

アメリカでは動物たちから直接話を聞く、いわゆる「アニマル・コミュニケーター」という方々がいらっしゃって、主にしつけやトレーニングに「カーミング・シグナル(犬たちの動作から何を表現しているかを読み取る方法)」などと組み合わせ、教えていらっしゃいます。この、アニマル・コミュニケーションとカーミング・シグナルを組み合わせることによって、「肉体」と「心」部分について、彼らの望んでいる事がよくわかる方法だと思います。


そのワーク終了後に感じたことは、やはり感性が豊かな方が多いからでしょうか?女性の方が圧倒的に、テレパシーを受けるアンテナが発達しているという印象でした。帰国前日、私は実際Dr.Bascoの犬「アリ」に語りかけてみました。実は、彼はちょっと可哀想な境遇で、彼はドーベルマンという犬種なのですが、その犬種に多い骨格系の疾患を患い、前の飼い主さんが、飼いきれなくなってあわや殺処分となるところを、Dr.Bascoに引き取られ、鍼灸やマッサージを駆使して完治したという子なのです。

「Dr.Bascoと縁があってよかったね。」と私が話しかけると、「うん。とっても幸せだよ。今は…。でも、昔はつらいことがあったんだ。」という答えが返ってきたので、(前の飼い主さんとの関係を思い出しているのかな。)と思ったのですが、突然私の中のヴィジョンの風景が変わりました。そこは、冬のスキー場で、長いスロープのある山の斜面の上から、78歳くらいの男の子がスノーボートに乗った、23歳の男の子を突き落とした場面が見えたのです。みるみるボートは、急降下し転倒して滑り落ちていきました。上でみていた男の子は自責の念で身体を震わせていました。一瞬にしてその7、8歳の男の子が「アリ」であることが分かりました。翌日、どうしても帰国前にこのことをBasco氏に伝えないとという念に強くかられた私は、私のみたヴィジョンを彼に伝えました。

「リインカーネーション(輪廻転生)ということですか。分かります。実はこの子は足が自由になってからも、走りや泳ぎは大好きなくせに、高いところやすべりやすい岩場などを極端に嫌うのです。そうでしたか。そういうことがあったからなんですね。」と、私の話を信じてくれました。

帰国の際の飛行機の中で眠ろうとしたとき、再びアリが出てきて言いました。「これからは、日本でボクたちの仲間がキミに助けを求めて、たくさんやってくると思う。彼らの代弁をしてあげて力になってあげてほしい。どうしても迷ったときや困った事が起こったらいつでもボクが力になるから。」と言って消えていきました。帰国後間もなくして彼の言葉通り、私は動物たちの「心の声」や、もっと奥深い「魂の声」を聞くことになってしまったのです。

それらの症例については他の機会で書かせて頂くことにしますが、長い年月を経て様々な形で、病気や健康についても肉体面だけでなく、精神的な心や魂が深く関与していることに気付かされていきました。結局このような形で私は、子供の頃の純粋な自らの想いと、ケミやミルにした約束を果たすことになったのです。



本格的なアニマルコミュニケーションを行うきっかけになったドーベルマンのアリと理恵子先生
ハワイ・カウアイ島にて-1997年11月撮影-


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